Interview: 百田陶園 百田憲由
有田で16代続く有田焼の商社、百田陶園。その社長、百田憲由さんは「2016/ project」のキーマンとも言える存在。2012年、デザイナー柳原照弘・ショルテン & バーイングスともに新しい有田焼のブランド「1616 / arita japan 」を立ち上げ、ブランドは成長を続けており、世界でも高い評価を得ている。百田憲由さんに、今の有田焼が抱える問題、商社の役割について話しを聞いた。
- 「1616 / arita japan 」から「2016/ project 」に広がったきっかけは?
「1616 / arita japan 」は有田焼の窯元3社と百田陶園の商社1社だけのプロジェクト。有田にまだ残る窯元、商社たちが同じように取り組まないことには産業として成長していきません。産業として成長していかなければ、結局は打ち上げ花火で終わってしまいます。「1616/ arita japan」の世界での評価を見て、有田焼創業400年事業の準備を進める佐賀県から柳原さんにコンタクトがあった。彼は、「1616/ arita japan」でやってきた海外のデザイナーとの協働を、他の窯元、商社にも広げて、有田の町全体から新しい有田焼を世界に送りだそうと、「2016/」のアイデアを生み出しました。
- 「1616/arita japan」の開発の際は、 窯元の職人さんたちは外部のデザイナーと有田焼を作るということをすんなりと受け入れることができたのでしょうか?
険悪なムードに陥ったことは何度かあります。職人たちには長年焼き物を作ってきた誇りがあり、「有田焼とはこういうもの」という先入観を持っているんです。ですから、柳原さんやショルテン&バーイングスたちが持ってきたデザインを見ても、「釉薬のかかっていないものなんて有田焼じゃやない」とか、「高台のない焼き物なんて有田焼じゃない」とケチをつける。そして試作品の段階で、デザイン画と違うものを作ってくるんです。「今までそうやって過去に執着してきたから、時代に置いてきぼりにされてしまったんじゃないか」と試作品を跳ね返してデザイナーのデザイン通りに作らせました。デザインを変えてしまっては、デザイナーと一緒にものを作る意味がない。職人たちはすばらしい技を持っているのだから、その技を最大限に生かしてデザインを形にしてくれ、とお願いしました。
- 有田焼を国内、国外に広めていく上で、百田陶園のような商社はどのような役割を果たすことになるのでしょう?
デザイナーと窯元の間に立ち、デザイナーからのデザイン提案に対して、クリエイティブディレクター2人とコミュニケーションを取りながら、実際に製造するアイテムの選定を行い、作ったものを売れるお店に届けることです。これまでの歴史を見ても、 17 世紀に有田焼があれほど海外の富裕層の手に渡ったのはオランダ東インド会社という貿易会社が商社の役割を果たしたからだと思うんです。 昔は有田には焼き物の作り手しかおらず、商社は存在しなかった。 東インド会社がヨーロッパの君主たちの欲しがる有田焼のテーブルウェアや壺を大量に有田に発注し、有田ではその注文に応じてひたすら有田焼を作っていたのです。伊万里には商社がありました。なぜなら有田焼は伊万里港を経由して全国に出荷されたからです。しかし、消費者が求めている商品を選び、そうした商品を的確な販売店に届けるためにはやはり有田にも商社が必要ということで、次第に有田にも商社が増えていったのです。
- 百田陶園は商社としてスタートしたのですか?なぜ生き残る事ができたのでしょう?
百田陶園の始まりはメーカーでしたが、第二次世界大戦後、商社に事業転換しました。ですから経済面での論理だけでなく、職人や作る側の言い分も分かります。日本がバブル経済に沸いた時期は、有田焼・伊万里焼の産地には高級旅館からの注文が黙っていてもどんどん来た んです。しかし、バブル経済の崩壊によって高級食器の窯元は軒並み廃業することになります。それでも有田の窯元がなんとか生き残ることができたのは、分業体制を取ってきたからだと思います。代々、有田では陶石からの陶土作り、成型、焼成、釉薬掛け、そして私たちのような商社問屋と、それぞれの工程に特化した企業が存在し、こうした企業が互いに取り引き先という間柄でつながっていたから足腰の強い、打たれ強い体質が生まれました。一社ですべての工程を行っていたら、もっと早く廃業に追いやられたでしょう。